社長の思いをつづったブログ
パソコンってゴミ箱だと思う。いらない情報を溜め込むには良い道具だ。生きた情報はいつでも現場にある。パソコンの前で仕事をしているなら外で遊べ
金太郎飴方式の弊害、考えることの欠如と内容のマジョリティ化、働きに行くならその範疇で、自分でするなら気持ちはいつもマイノリティでなければならない
金太郎飴方式のコンセプトに惑わされてはいけない。常識と非常識の見極めは静かに(Quietクワイエット)見つめてみること、自分の立ち位置を迷わないこと
お客様至上主義は正しいことで疑う余地はない。しかし、お客様かどうかの判断は時に必要となる。当たり前が当たり前でありますように
自立、自分で立つ、意外と自分一人だけで立てないことが年齢を問わず多い。パートナーに寄り添ってもらう、哲学に支えてもらう。見た目、自力で立つが適切で大切なこと
体が弱いとか頭が悪いとかを自分で言わないこと。言えば逃避できるは一生の内で損をする。目先、体が弱い、目先、頭が悪いは先では変化できることを否定してはいけない。学生のときの三島由紀夫はひ弱だった。
脱マニュアル化、前提はマニュアル化が終わっていること。その上でマニュアルに頼らない思考を目指す。マニュアルの弊害は意外と大きい。
自分は不器用だと思っている人で、本当に不器用な人に出会ったことはない。気持ちが不器用なだけで、自分は出来るんだと思うことが1つあれば伸びる。
出来がわるい人材はしかたないと思うが、性格がわるい人材には気をつけなければいけない。永い目でみると前者は意外と伸びる要素を持っていることが多い。
私が生まれた1955年くらいは食物自給率は80%を超えていたと思いますが。いまや40%を切る水準だとニュースで見てビックリしました。核の傘も問題がありますが、3倍に高騰した輸入食物は核以上の危険を持っているようにさえ思えます。自営業の傍ら、田んぼに出ていますが、休耕田の奨励で空き地の草刈をしている時に、日本は何か方向が間違っているように思えてしかたがありません。
遊んでいる所に何か植えて食料の自給率を上げることを考えて、それでも足らない場合には輸入するのが常等のように考えます。
もちろん農業振興地域に属した地域ですので、普通なら住宅は建ちませんが、50戸連帯といって、100メートル以内に民家が並ぶなら、ミニ開発が出来て家が建つというザル法があります。それならば農業振興地域は意味をなしません。
前例があるからとの文言で不思議なことはいつしか不思議ではなくなります。
賢いスパイラルMLは正当化され正義となるようです。納税は国民の義務だと理解できますが、責任をとらないML団体には疑問が残ります。書類を見ればML団体の個人名はどこにもありません。全てが代表者宛になります。その代表者になんて話したこともないのに不思議なことに代表者宛になります。100歩譲って代表者宛の傍に直接会話をした担当者の名前を記入するのが当たり前だと考えますが、それは前例がないので不要のようです。これでは責任の所在なんて有る訳が無いと感じています。まずは見える化が急務だと感じています。元気な65歳(55歳)以上の職場に適しているように考えます。土曜日と日曜日と5時以降9時くらいまでがメインで奉仕すべきだと考えます。本来国益を守る若い優秀な人材が本来あるべき仕事についていないように感じている。
As a taxpayer, don't forget that you've got rights.
時代は心の中に大儀がないと三島由紀夫が言った。
退屈な時代を予言していたが、抜け目のない精神は浸透していったように感じている。工業力によって裕福になったと彼は言ったが、それすら時として否定されて来ている感はある。ペルソナ(仮面)の出先機関はML(マルクス・レーニン)になってしまい、賢いスパイラルで民主的な中に確固たる存在をする。「それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」と三島は言ったが、私も、そう感じている。
彼も言ったが、年を取ったせいか一度も独裁的になったことのない天皇が日本人の心の支えになっていると感じることが多くなった。勿論、お目にかかったことはない。たまにニュースで知るが心が熱くなるのは何故なのだろう。
「この世のもっとも純粋な喜びは他人の幸福を見ることだ。」という三島の言葉を思い出す。小説「金閣寺」が燃える描写とリーマンショックが重なる。それでも生きながらえる主人公に自分自身をみる思いがする。
オーナーには苦情を言う資格はない。永遠の悩みは人を活かせるかどうかだ。時として気持ちはアンビバレンツに陥りやすい
いつでも今の状態を憂うことはない。明確な未来は見えないかもしれないが、サジェストする内なる思いはいつだってあるはずだ
トラブルを楽しむくらいの気持ちの大きさがほしいものだ。切羽は柄(つか)と鞘(さや)の両面に添う。切羽はつまるものではなく気持ちが寄り添うものだ。
いつでも真正面ど真ん中から望む、執念の知恵はダイヤモンド。撤退はいつでもできる。でもまだ早い
リスクを抱えて経営をするのが中小零細企業の特徴に思える。人材のレベルは一般常識を逸脱するなかでそれをリスクと考えるか当たり前と考えるかは、それぞれだと思う。働くとかは何かの哲学なんて用を足さない。そんな中でスキルを問わない会社があってもよいと考える。フューマンエラーは頼むから発生する。技を憶えることを廃止する。誰でもどんな人でも最低限のことができることを考える。知識の分散、私だけが知っていることの禁止、20年ぶりの仕事でも昨日したことの様に誰でもができること。命令されない環境でセルフマネジメントを大切にする。必要な時に必要な知識情報が自動的に見えること。必要とするデータが現場のラインや機械ならば自動的に人を介さずに直接行き来をさせる。現場から戻って来た信号データは学習プログラムで判断をさせて自動的にメインデータを更新させる。更新されたデータを基に次回の生産に役立たせることとする。それでも最低限のスキルは必要不可欠である。それは月日でカバーするしかないように考える。けっして文句はいわない。見つめ続けること。夜明け前の静けさのように心穏やかに時を待つしかない。あせることはない。
U氏が来社。この業界のスペシャリストがほしいとのこと。回答は「いない」と答えた。偶発的なトラブルに諦めないで取り組める人は稀有なこと。この業界は特に原因が分かりずらいトラブルにみまわれる。職人の領域だと考える。諦めない気持ちで挑む以外に方法はない。U氏の会社には私からすればこの上ない人材に囲まれて、なんの不安もないように感じている。それでもそれ以上の人材を望む背景をいかがなものかと思う。人材について再考させられる。
先祖があるから自分の今がある。先祖に話しかけることはよいことだがお願いをしてはならない。年間を通してよく行く。行く気になるときには何かしらの悩みを持っていることが多いが自分の困ったことを話したことはない。しかし、不思議なことに悩んでいたことは 早急に薄らぐ。行くことのおまけなのか分からないがそう思える。日本人として靖国がサンクチュアリなら身近なこの行いも個人的な聖域だと考える。理由はいらない。理屈も不要だ。当たり前のことは以下も以上もない。考える必要さえない
人の気持ちが理解できる人の方が、運に見守られる傾向が強いと感じている。自分のことより他人のことをどのくらい考えられるかが人生において得をすると思う。目先は損な感じを受けるかもしれないが、長い時間を経過した年寄りはそう感じている
運が半分、自分の行いが半分、足したものは運命となるが、振り返れば宿命と思える